駄文・散文帳
2015年05月31日 (日) | 編集 |
土曜日にそごう本館のエレベーターに乗ったら、アナウンスがNHK連続テレビ小説「まれ」のナレーターを務めている戸田恵子さんの声そっくりだったのでびっくりするやら可笑しいやら。そういえば、ドラマの方ですが、戸田恵子さんの声とは思わなかった。

さて、今年は戦後70年と言う節目の年。で、「侵略のお先棒をかついだ朝日が謝罪談話を出すべきだ。」と言う話を。

朝日新聞は「戦後70年謝罪談話」を出せ
2015年05月30日 池田信夫

大政翼賛会を設立した「新体制準備委員会」の幹部は朝日新聞主筆の緒方竹虎であり、そのイデオローグとして「ナチスを模範にせよ」という論陣を張ったのは、論説委員の笠信太郎だった。彼が1937年に公刊した『日本経済の再編成』は、大政翼賛会の経済計画を示してベストセラーになった。

笠は「自由主義的な経済運営は限界に来ている」と論じ、当時世界を席巻していたナチスの国家社会主義を日本も取り入れるべきだと主張した。彼は「利潤第一主義に代り得るためには、その社会的倫理的構造が個人主義を離れ、国家生活の社会性と全体性を拠り所としなければならない」と論じ、これは忠誠と服従を重視する日本の伝統的な国体とも調和するとのべた。

それは具体的には、産業別・地域別のカルテルやトラストによる再編成だった。株主資本主義をやめて「資本と経営の分離」を行ない、各産業ごとに業界団体をつくり、それを都道府県ごとに組織して国の経済政策協議会が統制し、軍需産業の強化を目的とする資金配分を国家の管理する銀行が行なう――これが「革新官僚」のバイブルとなり、1938年の国家総動員法の基本理念となった。

ところが笠の提案はあまりに過激だったために「赤」とみなされ、のちに革新官僚は企画院事件で逮捕される。緒方はそれを察知して1940年に笠をベルリン特派員として避難させ、笠はドイツでダレス米国務長官の終戦工作に協力した。そして1948年に帰国すると東京本社論説主幹となり、「全面講和」の論陣を張った。

ドイツでは、ナチスに協力した新聞社はすべて占領軍によって解散されたが、1945年8月14日の社説で本土決戦を主張した朝日新聞は、その翌週から「平和国家」の建設をとなえる論調に転向し、GHQの情報操作に協力することで解散を逃れた。

政権に入った緒方はA級戦犯容疑者として公職追放されたが、のちに自民党に復帰して副総理になった。そして国家総動員法の発案者だった笠はアメリカの工作員となって生き延び、1962年まで論説主幹をつとめた。この侵略新聞からGHQ新聞への転向が、朝日の空想的平和主義の原点である。

朝日は自分こそファシズムの指導者だった黒歴史を隠蔽するために、それを追及したGHQの立場を守っているのだ。朝日がこのような過去を謝罪することなしに安倍首相に謝罪を求めるのは、盗っ人猛々しいというしかない。


司馬遼太郎氏は「坂の上の雲」のなかで、以下のように書いています。

「煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の日本の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。」
▶「日露戦争の勝利とその後の日比谷の国民大会こそが、その後の日本のむこう四十年の魔の季節への出発点になった。」
▶「この群衆の熱気が多量にーたとえば参謀本部にー 蓄電されて、以後の 国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。」

日露戦争当時のこと、今のようにテレビなど無かった時代の新聞の責任は大きいということ。日本の一部のエリートたち(ジャーナリスト・学者ら)が政権や軍部の弱腰を非難し、国民をミスリードした時代。

なかでも世界情勢を分析する能力がないくせに群衆を煽った朝日新聞らマスコミでした。日比谷焼き討ち事件の原因も朝日新聞をはじめとする強硬論で、新聞の売れ行きは飛躍的に増大。しかも、この時期の戦勝報道の気分が太平洋戦争へと導いていく。

戦後、朝日新聞は手の裏を返して「反日」になったが、それは反省からではない。「ファシズムの指導者だった黒歴史を隠蔽するために、それを追及したGHQの立場を守っている」からです。


 

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