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瀬島龍三氏が、4日未明老衰のため東京都内の自宅で亡くなりました。
95歳でした。
ご冥福をお祈りしたいと思います。

新聞各紙は瀬島氏死去の記事を大きく報道しました。
・産経新聞:「激動の昭和 エリート参謀」「昭和史に異彩放つ」
 「政財界の指南役」
・読売新聞:「昭和の参謀」「5つの人生歩む」「昭和の真相語らぬまま」
 「波乱万丈 男冥利」
・朝日新聞:「政界の黒衣役」「昭和史、参謀役を貫く」

瀬島氏は、山崎豊子の小説「不毛地帯」の主人公・壱岐正中佐、
沈まぬ太陽」の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれました。
また、「二つの祖国」では実名の記述が見られます。

太平洋戦争時には大本営作戦参謀、
高度経済成長期には商社の企業参謀、
そして中曽根元首相の懐刀として政治参謀として活躍した
昭和史そのものの参謀ともいえる人物。
昭和の歴史のかなり中枢に近いところで生きてきた人。
戦中戦後と、日本最高のエリート街道を驀進してきました。

エリートの功罪と歴史に対する指導者の責任を問う声があります。
日本は愚かな戦争をしたとか、軍部が悪かったとか、
はたまた日本の歴史自体を否定的に論じ貶める声が、定番のようにありますが、誰が悪いのではなく、時の流れは誰もが止められなかったと考えます。当時、
小村寿太郎を売国奴呼ばわりしたのは朝日新聞やほとんどの日本国民でした。
その時から群衆のパワーで帝国主義が始まったのです。
戦争の最大の責任は、時の趨勢だったと思います。
日露戦争以来、ずっと戦争を煽ってきた朝日新聞は、謝罪無しで戦後、
手の裏を返したように戦争批判。戦争指導者を煽った過去は忘れてしまった?
マスコミが、ある人物に対してレッテルを張って
イメージを固定化するのは間違いで、傲慢です。
私たちの想像を遥かに超えるものがあったと思います。

東京新聞の論説委員が瀬島氏に、ガダルカナル島撤退が遅れた理由を
尋ねたところ、やや間を置いてこう語ったそうです。
「理屈ではどう考えても勝ち目はない戦でも、
日本人将兵の血が流れている場所を見捨てるわけにはいかない…」
瀬島氏の経歴には称賛と批判が渦巻いている、としながらも、
職業軍人でありながら「情にもろい人」だったとの印象も強くよみがえる、と回顧。

主な経歴
・1911年富山県生まれ。
・陸軍大学校を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀をたまわる。
・大日本帝国の関東軍参謀陸軍中佐
・シベリアへ11年間抑留される。
・1958年に伊藤忠商事に入社。1987年に特別顧問に就任。
・1984年、勲一等瑞宝章受章。
・中曾根康弘政権のブレーンとして土光臨調委員などを務める。
・千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長として靖国神社の国家護持を求めていた。


瀬島龍三氏に関する興味深いサイトをご紹介します。

ネットで、瀬島氏のテレビ出演した際の動画が観られます絵文字名を入力してください

「故・瀬島龍三氏は何という運命を背負って生まれてきたのか」

昭和天皇と瀬島龍三氏にかんするひとつのエピソード
 1979年、昭和天皇の孫・東久邇優子(東久邇宮稔彦王第一王子盛厚王の子)が伊藤忠商事社員と結婚することが決まった時、瀬島龍三夫妻が媒酌人として結婚式が執り行われることになった。
それを受けて、スリランカ大統領来日歓迎晩餐会が催された際、昭和天皇は瀬島龍三夫妻を特別にお召しになり、「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家、社会のために尽くすように。それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さいときに母に別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分な面倒が見られず、長く心にかかっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる。どうかよろしくお願いする」というお言葉を瀬島に賜った。
東久邇優子の結婚披露宴には皇太子明仁親王、同妃美智子(現在の天皇、皇后)をはじめ全皇族が出席した。(ウィキペディアより抜粋)

瀬島龍三氏のテレビ出演(you tube)
フジテレビで放送された「瀬島龍三 日本の証言―新・平成日本のよふけスペシャル」に、9回出演。 「瀬島龍三日本の証言 新・平成日本のよふけスペシャル」として出版もされています。



瀬島龍三氏死去 秀才中の秀才 数奇な運命

産経新聞 2007年9月5日(水)

 さすがは陸軍士官学校を2番、陸軍大学校をトップで卒業した「秀才の中の秀才」だと、妙に納得させられる特徴的な話し方だった。4日亡くなった瀬島龍三伊藤忠商事元会長の事務所を訪ね、政治や国際情勢について意見を聞くと、いつもこんな答えが返ってきた。

 「一つにはこう、二つにはこんな案もある。三つにはこうするのもよいが、この場合は2番目が適当だろう」。何について尋ねても、3案ほど示してから結論を語った。

 2003年の3月上旬、イラク戦争開戦の見通しを聞くと、瀬島氏はこう予言してみせた。

 「開戦日は今月20日だと思う。軍隊というものは、一度展開すると、決まったようにしか動けないものだ」

 イラクの気候、月の満ち欠け、米軍のその時点での部隊配置を計算すると、そうなるという。後に防衛庁(当時)情報も得ての結論だと知ったが、開戦日は瀬島氏の言った通りとなった。

 戦前・戦中は師団参謀、大本営参謀…と将帥を補佐し、戦後は歴代首相の指南役となった瀬島氏は、参謀としての生き方や、思考・分析の手法が血肉化していた。

 「昭和の生き証人」として、数々の歴史の現場に立ち会ってきた人物だけに、体験談も興味深く生々しかった。

 現在の北朝鮮北部では、当時複数いたという金日成を名乗る匪賊(ひぞく)から銃撃を受けた。昭和15年ごろ、大本営参謀として有事動員の予算を大蔵省と詰めたとき、相手側の窓口は若き日の福田赳夫元首相だったという。11年間のシベリア抑留中には、ソ連側証人として東京裁判に出廷。40代半ばで入社した伊藤忠商事で、会長にまで上り詰めた。

 旧陸軍の人脈から韓国の朴正煕、全斗煥両大統領や経済界に知己が多く鈴木、中曽根、竹下、海部の各内閣で非公式特使として訪韓し、歴史問題などで水面下の調整を進めた。ただ、歴代首相の中の1人に対してだけは辛辣な評価だった。理由は、マスコミに特使訪韓が漏れた際、「この人だけが『知らない』と逃げた」からだという。

 瀬島氏は抑留時代について回想録「幾山河」に詳しく書いているが、あまりその時代のことに触れたがらないこともあった。ソ連側との密約うんぬんと勘ぐられ続けるのが嫌だったのだろうし、思い出したくない出来事があったのかもしれない。(阿比留瑠比)




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タグ : 瀬島龍三 山崎豊子 昭和史 エリート シベリア抑留 不毛地帯 沈まぬ太陽 二つの祖国

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